最も嫌いな質問:あなたの考えは?

わたし

生まれてこの方、ディスカッションをしたことがない。

何かをテーマに自分の意見を言い合う。納得したり、反論したりしながら

相手と徹底的に向き合う。

ディスカッションするためには、そのテーマについて興味を持ち、まあ持たなかったと

しても、自分なりの答えがないといけない。

その答えが厄介で、自分をよくみせたいとか、相手に気を使ってとかすると

とたんに、ディスカッションではなくただの無駄話になってしまう。

そうではなくて、相手の考えと自分の考えの違いを理解することはできずとも

認め、さらに、自分の考えをわかってもらうために、頭を使い言葉にする。

そういう事をしたことながない。

だから、私は考える力がないのではないだろうか。

浅いと思う。思慮浅いのだ。

誰か強いものの意見に流されやすいし、嫌われたくないので同意ばかり

を示してしまう。

人間が怖いし、自分に自信もない。そもそも端から自分の意見なんてものはない。

いい年をして、本当に情けなく思うのだが、真実。

どうすれば、考える事ができるのだろうか。

私は単細胞なところがあるので、すぐ、善悪、好き嫌いだけで物事をみてしまう。

もっと多角的に物事をみたら、善・悪がまったく変わってくる場合もあるのに

その能力が無いように思う。

これは、性格もあるが育った環境も影響していると思う。

日本の教育は考えさせることをしない。考える事を身につけさせると厄介だ。

正しい行いをするためには私たちはどうすればよいでしょう。

この作者はどういう気持ちでこの一文を書いたのでしょう。

〇〇が起こったのは何年でしょう。

eatの過去分詞は何でしょう。

知識詰込み型で、自分の考えを排除してよい教育の中で私はいつもそこそこの

成績だった。

どう答えてほしいかを察知するのが得意だったし、意味のない数字とか

英語の動詞の活用なんか、ただ覚える という事が割とたやすかった。

こうして大人になった。

今でも、誰かが気に入る答えではなくて、自分の答えは?と自問自答しても

出す事ができない。ないんだから。

フランスに行かなければ、そんなことを考えることもなかった。

自分の意見をしっかり持ち、口にする。

そんなことは、4、5歳の子供でも求められるし、当たり前にできる。

私の母がフランスに遊びに来た時に、ある観光地を元仏家族と一緒にまわった。

お昼になり、元義父がまず母に「何を食べたい?」と聞いた。

母は「他の皆は?」と問うた。自分の意見が採用されるのが嫌だったのかもしれないし

本当に何の答えもなかったのかもしれない。

元義父は間髪入れずこう母に言った。

「他の人はどうでもよい、あなたは、何を食べたいのか」